千葉県いすみ市の児童養護施設 子山ホーム
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木 木 子山ホームについて

子山ホームの歴史

  • 市川時代

    子山ホーム事務局の建物 子山ホーム事務局の建物
    ●昭和24年4月、ルーテル協会宣教師エーネ・R・パウラス女史が、松戸市小山にあった有隣学園(感化院)の経営を引き継ぎ、養護施設として変更し認可を受けました。 ●昭和27年5月、社会福祉法人チルドレン・パラダイスとして法人認可を受け、有隣学園から子山ホームと名称を改め、場所も松戸市から市川市国府台へ移し、子供はあくまでも家庭的に養育すべきというエーネ・パウラス女史の思想から、分散小舎制をとり、7~8名の子供を年齢を縦割りにして兄弟姉妹の様にして保母の家族(大半が夫婦者)と一緒に家族を構成し、地域の中に生活させました。
    ホーム(年長児のホーム)陸軍の兵舎を改造したもの ホーム(年長児のホーム)陸軍の 兵舎を改造したもの
    また、エーネ・パウラス女史のキリスト教の愛の信仰から自然を愛し、人間を愛し、動物を愛することを、そして施設の中に、畑を作り、乳牛を飼い、子供達に労働の辛さや大切さを教えました。草一本でも命を絶つことを嫌い”草は抜かないで刈りなさい”とよく言われました。また牛のお産の時、徹夜して牛の陣痛の苦しみを自分の事の様に感じ、懸命に介抱されておられた姿が頭に浮かんできます。 子供の進路について、パウラス女史に相談に行くと、「高校に進学させなさい」「大学へ入れる様にしてあげなさい」と必ず進学を進められました。そして”親のいる子は社会に出ても親というバックボーンがあるから何とかなるけど、親の居ない子は社会に出ると学歴だけが財産よ、びりでもいいから学校を出して上げなさい。”と言われていたエーネ・パウラス女史の言葉が思い出されます。エーネ・パウラス女史の尊い思想を継承してゆく努力をしてゆきたい。 昭和38年大橋信雄氏が園長に就任し、平成14年3月までの40年間つとめられました。
  • 成田時代

    全景 全景
    ●昭和41年5月、かねてからの夢であった施設の近代化と合理化を図るため、成田市駒井野へ移転新築しました。引越しの際、トラックの荷台には引越し荷物と飼っていた犬、猫、植木、そして子供とノアの箱舟を思わせる光景でした。 しかしその年の7月、新国際空港の建設がなんと成田市に決定し、ホームの敷地は騒音区域に位置し、移転早々再移転を余儀なくされる運命となりました。
    管理棟正面 管理棟正面
    空港建設に備えた測量の強制執行の日には、上空には報道関係のヘリコプターが低空で飛びかい、公団職員や機動隊と、測量を阻止しようとする反対派の農民や学生との衝突が始まりました。 血だらけになった学生が子山ホームに逃げ込み、機動隊が追いかけてくるといった状況になり、危うく子山ホームが成田闘争に巻き込まれそうになりました。
    • ひまわり、すみれホーム ひまわり、すみれホーム
    • りんどう、あじさいホーム りんどう、あじさいホーム
    • 自分たちで作ったプールで 自分たちで作ったプールで
  • 大原時代

    全景 全景
    ●昭和45年12月27日に今の地、千葉県夷隅郡大原町に土地を買収して建設した子山ホームに再引越しをしました。 職員や子供たちはバスで、荷物は数台のトラックで、まるで民族の大移動の様に列をなして大原に向かいました。 高台にある太平洋を一望できる素晴らしい場所で、私たちは充実した生活を送っています。 右の写真は完成直後の写真で、現在は多くの緑に囲まれています。
    • 管理棟 管理棟
    • いってきます いってきます
    • 卒園式 卒園式
    • 各ホームを望む 各ホームを望む
    • 児童学習棟 児童学習棟
    大原への移転に関しては、前後を通して地元の政治家、地主さん、学校教育関係者や関係省庁の皆さんには多大なるご尽力をいただきました。
    ●昭和48年(1973年)4月 地元大原町の要望も強く、3歳未満児の保育を主とした保育園、子山保育園(定員90名)を法人所有の同一敷地内に開設しました。
    ●昭和58年(1983年)4月 社会福祉財団中央競馬場より補助金を頂き、管理棟裏に児童学習棟を新築しました。
    ●平成7年 大原移設25周年記念大原町文化センターを借りて、記念式典が盛大に行われました。
    • ●昭和48年 子山保育園併設 ●昭和48年 子山保育園併設
    • ●昭和58年 三波春夫さん来園 ●昭和58年 三波春夫さん来園
    • 大原移転25周年記念式典アトラクション 大原移転25周年記念式典 アトラクション
    ●平成10年(1998年) 児童が社会に出て自立して生活出来る様、大原町内に民家を借り、児童指導員と保育士夫婦が寝食を共にし、5~6名の児童と生活し訓練するために、分園型自活訓練ホーム、「是枝ホーム」を開設しました。
    ●平成11年 子山ホーム創立50周年記念子山ホームも50歳を無事迎えることができました。
    ●平成14年 子山ホーム開設当初から長年にわたり児童指導員 園長としてご尽力された大橋信雄氏が退任され森田雄司氏が園長に就任しました。
    ●平成16年現在、約700名の卒園者が巣立っていきました。
    ●平成17年(2005年)4月 児童家庭支援センター「こやま・家庭支援センター」、また、大原町内に民家を借りて6名の子どもと共により普通の生活に近づくことを目指し、小規模グループケア「米元ホーム」を開設しました。 なお、この年の12月5日、市町村合併により大原町からいすみ市へ変更になりました。
    ●平成19年(2007年」4月 分園型自活訓練ホーム「是枝ホーム」を終了、新たに「米元ホーム」を地域小規模児童養護施設として転換し、定員6名増加となりました。 また、小規模グループケアとして「吉田ホーム」を開設しました。
    ●平成20年(2008年)4月 長生村に施設入所児童だけでなく地域の高学年児の自立支援を目指し、分園型自活訓練ホーム「袴田ホーム」を開設しました。
    ●平成21年(2009年)4月 分園型自活訓練ホーム「袴田ホーム」が地域小規模児童養護施設に転換し、定員が6名増えて67名になりました。 また、小規模グループケア「塩田川ホーム」を開設しました。
    ●平成26年(2014年)8月  子どもたちの、そして職員の安心・安全を守るため、九州大学名誉教授 田嶌誠一先生が考案された「安全委員会方式」を導入しました。
    ●平成27年(2015年)4月 地域小規模児童養護施設「米元ホーム」を新たに「西本ホーム」として改名、小規模グループケア「塩田川ホーム」を新たに「菅野ホーム」と改名しました。
    ●平成30年(2018年)4月 長年、地域小規模児童養護施設として活動していた「袴田ホーム」が子山ホームから独立してファミリーホームになりました。 それに伴い定員が6名減となり、子山ホームの定員は61名になりました。
    ●平成31年(2019年)3月  施設老朽化に伴い平成27年(2015年)より順次実施しておりました児童棟及び管理棟の改修工事が完了しました。
    ●平成31年(2019年)4月  現園長の吉田正浩氏が園長に就任しました。
    ●令和元年(2019年)12月  これまで子山ホームの基本理念であったものを子山ホームの倫理綱領へと改めました。  また、それに伴い新たなスローガン、基本理念を設けました。
    ●令和2年(2020年)  衣料などを保管していた倉庫の老朽化にともない、改修工事を行い、最終的に子どもたちも外壁の色塗りを行いました。倉庫も兼ねた世界で1つだけの多目的ホールに生まれ変わりました。
    ●令和2年(2020年)4月 地域小規模児童養護施設「西本ホーム」を小規模グループケアへ、小規模グループケア「吉田ホーム」を地域小規模児童養護施設へと変更しました。
    ●令和3年(2021年)3月 老朽化が激しかった渡り廊下の改装及び園庭のアスファルト化が完了しました。また、「西本ホーム」から「つばきホーム」へ名称変更。さらに、コロナウイルス等の感染症対策用の別棟を建築開始しました。
  • いすみで今

    いすみで今
    ●令和5年(2023年)4月 長年住み込み体制であった本園の体制が宿直制に代わりました。
    ●令和6年(2024年)4月 本体施設を全て小規模グループケアとしたため定員が48名となりました。これに伴い「つばきホーム」を閉鎖し「菅野ホーム」を「つばきホーム」へ移転しそのまま「菅野ホーム」としました。
    • いすみで今
    • いすみで今
    • いすみで今
  • エーネ・パウロス女史

    エーネ・パウロス女史
    1891年(明治24年)
    米国ノースカロライナ州 ハーバー村に9人姉妹の6番目として生まれる。 父親は彼女が8歳の時に病没し、信仰深い母親の手一つで育てられ、人のために働くことを教えられた。
    1919年(大正8年)
    コロンビア大学卒業後、姉を慕って日本福音ルーテル協会宣教師として来日。
    1920年(大正9年)
    佐賀県小城町ルーテル協会勤務
    1922年(大正11年)
    熊本市の慈愛園で姉のモード女史と協力し、乳児院や養護施設の拡充に献身的な奉仕を捧げ尽力する。
    1927年(昭和2年)
    東京ベタニヤホームの責任者として、布教につとめる一方、孤児や苦しい生活の母子家庭の援助活動に奉仕する。
    1941年(昭和16年)
    日米開戦により帰国
    1947年(昭和22年)
    再び来日、戦争孤児の救済にのりだし、社会福祉法人チルドレンス・パラダイス、東京ベタニヤホーム、千葉ベタニヤホームの三法人を設立した。
    1952年(昭和27年)
    千葉県知事から児童福祉事業の功績に対し、表彰される
    1960年(昭和35年)
    在日外人社会事業功労者として勲4等瑞宝賞を贈られる
    1964年(昭和39年)
    70歳の定年となり帰国
    1978年9月10日(昭和53年)
    87歳で召天された